前回の記事でTVアニメ「幼女戦記」を紹介した。
この作品はすごく好きな作品で、とても良く出来てる作品だと思うのでかなりおすすめなアニメだ。
で、この作品は「劇場版 幼女戦記」というタイトルで映画化もされてるので、今回はそっちのことについて書いてみようかなと。
「世間の評価」は概ね高評価なれど…
前回の記事で、「幼女戦記はTVシリーズの他、劇場版、スピンオフの「砂漠のパスタ大作戦」などがあって、アマプラ、U-NEXT、DMM TVなど、各VODでもラインナップしてる。」と書いた上で、
「今回はあくまでもテレビシリーズに絞って感想、レビュー的なことを書いてみる。」
と書いた。
あえて念を押すように書いたのは、TVシリーズと劇場版はきっちり分けるべきと思ったからである。
なので、やっぱり映画の方も紹介しとくべきだろうなと思ってのこの記事なんだけど…
きっちり分けるべき、とは、実はこの「劇場版 幼女戦記」は正直がっかりした、というのが素直な本心なのでってこと。
(出典:YouTube KADOKAWAanime)
ただ、Amazon の prime video でも見れるのでそっちでレビューを見てみると、これが結構な高評価となっている。
(情報は2024年2月時点のものです。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。)
これまた前回のTVアニメ版紹介時に、悪評も多くて意外だったと書いたけど、この「劇場版 幼女戦記」の高レビューもまた意外だった。
どうも自分の感覚は世間とはかけ離れてるようで…
今回もそんな世間とかけ離れた個人的な感想としてなので、世間の意見と大体同じ、と自負してる方は十分名作に感じるかもしれない。
アニメのクオリティ方面
まず、作画方面的なこと。
なんか偉そうだが、劇場版アニメのクオリティは正直TVアニメ版に劣ると感じた。
本来は映画の方がクオリティ高いってのが普通の気がするんだけど、劇場版はキャラの作画が薄っぺらい部分が多く見られた気がする。
一昔前のアニメのような “キャラデザの破綻” に至れば致命的だけど、もちろんそこまで酷いものにはなってない。
なんというか、素人がこんなことを語って良いものか分からないけれど、力を入れるところ、力を抜くところ、それが素人目に分かってしまう位?な感じ。
つまり、力の配分を制御してるというか、見せ場は思い切りしっかり描いて、はしょるところははしょる、みたいな。
実際のところアニメーターさん達がどうしていたのかは分からないし、また逆に言えばそういう手もあるだろうことも考えられる。
ただ、それを一人のアニメファンに感じさせてしまう、なにか事情があったのかな、とか想像させてしまう時点で物語への没入感が削がれてしまう訳で、作品本来としての評価が一段下がる、というのがシビアながら、現実なんじゃないかと。
TVアニメ版のクオリティがすごく高かっただけに、その点は余計に残念。
戦争、殺戮、暴力… この展開は…
そしてなによりもがっかりしたのがストーリー展開。
この「劇場版 幼女戦記」はTVアニメ版を踏襲していて、続きとして展開されてるんだけど、様相はガラリと違うと思っていい。
前回記事で少し書いたように、TVアニメ版では、ラストにメアリー・スーの瞳に「存在X」の匂いが感じとれて、実際「劇場版 幼女戦記」ではターニャに匹敵?、それ以上?の魔力を見せる最強の敵みたいな存在として描かれている。
描かれてはいるんだけど、、、「存在エックス」の存在はまるでなしw
もちろん全体通して存在エックス「のような雰囲気」は漂わせてるものの、TVアニメ版の様に「発現」はしない。
さぁ、そうなると、いわゆる「なろう系」の空気感は限りなく薄くなって、戦争、殺戮、暴力、そんなものばかりが目立つようになってしまう。
劇中父の仇と我を忘れて怒り狂ったメアリー・スーがターニャに牙をむき、「存在エックス」に与えられた?驚異的な魔力によってターニャを翻弄、ボロクソに叩きのめすシーンも描かれている。
結局返り討ちにあって、すんでのところで救出されるんだけど、このメアリー・スーの行動はターニャへの憎しみしか感じず、気分が悪くなる。
やり返してやる、敵討ちだ、殺してやる、そんな人間的な憎しみ、丸出しの感情だけ。
オマケに言うのなら、このヒロインになりうるキャラクターのメアリー・スーを完全に悪役扱いにしてる部分もあるから、ターニャの銃弾に倒れる様を「ざまあみやがれ!」的な感情で見てしまう人も多いはず。
もうこうなってしまうと、物語も現実も関係なく、神?存在Xの影など微塵も感じられず、ただの殺し合いアニメになってしまう。
ターニャはターニャで「仕事だ」と我に返り?冷静に対処していく、、、んだけど、本当の意味で我に返るということであれば、「存在エックス」の思うままにはならん!安泰にこの世界を生きてやる!ってことがあっての行動。
もちろんこの部分の描写もあるにはあるんだけど、一番重要なその部分がとってつけたような印象になってしまってる。
つまり、「なろう系」であるなら重要であろう部分が薄くなって、戦争、殺戮、暴力そのものを描くアニメになってしまってる感じだ。
そういう言い回しの持つ意味が、TVアニメ版とは異なってしまってる印象を受ける。
TVアニメ版では「仕方なく」「やむを得ず」って部分をなんとか保っている気がするけど、劇場版では殺し合いを作品として見せるための言い訳のように感じられてしまう。
幼女戦記で見たかったものは
前回記事でも書いたように、カルロ・ゼン氏の原作は読んでいないし、コミックス版も未読なので、このストーリー展開が原作に基づいたものなのか、はたまた多少変えてる脚本なのか、などは不明。
なので、この「幼女戦記」という作品自体が「劇場版 幼女戦記」に近いもの、つまり思い切り戦争を描きたくて、神によって幼女に転生させられるって要素が、戦争を見せるためのきっかけに過ぎない程度なのであれば、この「劇場版 幼女戦記」はむしろ”本道”なのかもしれない。
ターニャの訓示?というのだろうか、部隊を誇示するための言い回しはどんどん上手くなっていったり、どんどん指揮官らしくなっていったりと、戦争ものが好きなミリオタならばゾクゾクするのかもしれないし、その辺は分からない。
ただ、TVアニメ版しか知らない者としては、極端なことを言えばむしろ戦争の方がただの舞台であって、だからこそ凄惨な戦争シーンもある意味「舞台背景」として見れたりする。
それが良いか悪いかは別として。
個人的に見たかったのは、幼女の姿で転生させられ、戦いの真っ只中に投げ込まれたエリートサラリーマンが、神「存在エックス」に対抗していく様、
とか、
淡々と対抗していくターニャとは逆に、怒りと憎しみに打ち震えるメアリー・スー、つまり愚かな人間とに、「存在エックス」はどういう対応を見せるのか、みたいな部分だった。
けれど結局映画の方でも相変わらず「存在エックス」は姿を現さない。
その替わりゴ○バチョフみたいなキャラクターの、醜悪な欲望が描かれたりなど、「そんな描写いる?」みたいなものだけが増えてたりするのだ…
TVアニメ版を褒めすぎ?
そんな感じで、個人的にはこの「劇場版 幼女戦記」はがっかり感が大きかったんだけど、その後しばらくして wiki を見て発見したことがある。
それは「アンドリュー」という人物についてで、説明は以下のようにある。
章の幕間などに登場する後世の記者。通信社「ワールド・トゥデイズ・ニュース (World Today’s News)」所属。
若き日にはかつての大戦に従軍記者として関わったこともあるベテラン。一般に流布される大戦の話に疑念を抱き、敗戦した帝国の真実を求めて調査を続け、一般に知られていない二〇三大隊などの情報に近づく。特に、機密解除された当時の国家情報で、大戦の主立った戦闘に必ず登場する(ターニャの姓「Degurechaff」を表す) 11文字の伏字「XXXXXXXXXXX」を「11番目の女神」と呼び、生涯をかけてその正体を追う。
「劇場版 幼女戦記」の冒頭に登場する人物がこの人物なんだけど、こういう「後世の記者が今は亡き人物を追う」みたいな展開すごく好きで、こっちで押していってくれたらどれだけ面白くなったろう、とまたさらにがっかりした。
wikiを見てはじめて分かったくらいだから、少なくともTVアニメシリーズしか見てない自分の様な者には気づかないんじゃないかな。
現世で線路に突き落とされるほどの憎しみを味わったかと思えば、その瞬間に発現した神にさえ淡々と持論を唱え、ならばと転生させられた戦争に明け暮れる世界でも己を全う、後方勤務を目指して淡々と”職務” をこなし、どんどん出世し、英雄に。
神と人間、両者の存在を知った上でなお安泰な後方勤務を目指しつつ、「存在エックス」に翻弄され、「勝利の使い方を知らない」とまで説いてみせるほどに人間の本性をさんざん見せつけられる。
そんなターニャの姿を描いてみせたTVアニメ版「幼女戦記」には、ある意味「孤高さ」みたいなものをターニャに感じることができたんだけど、「劇場版 幼女戦記」にはそれが感じられない。
「存在エックス」の “隠し味” 的シーンもないに等しく、単なる戦争屋、ただの戦争アニメのようになってしまってる。
幼女戦記で描きたい世界はこれなの?
カルロ・ゼン氏の原作に忠実にあるべきか否かとか、軍事系が好きないわゆるミリオタに向けるべきかそれともなろう系に振るべきかとか、現実路線か思想路線かとか、様々な要素があって難しい部分ではあると思う。
レビューを見ると概ね評価が高く、恐らくこれが正解なんだろうとも思う。
ただ、個人的にはやっぱりもう少し「ターニャと存在Xのやり取り」が見たかった部分が大きい。
神を語ろうと思えば答えは出ないだろうけれど、せめてこの世界観の中での答えを見せて欲しかったかなと思う。
TVアニメ版からの流れとしてメアリー・スーの存在は鍵となるほど重要で、「劇場版 幼女戦記」のビジュアルとしても羽の生えたようなメアリーが描かれている。
ここまでフィーチャーしておきながら、ただ強大な魔力を持つ “獣” 、憎しみで暴走する復習鬼として描かれているだけなのは、あまりにも芸がなくて、あまりにも忍びない気がする…
百歩譲って、仮に「劇場版 幼女戦記2」とかの予定があってそれを踏まえてた、としてももう少しスマートなしまい方はなかったのかなあ…。
戦争にスマートもクソもない、不条理と理不尽の嵐、そう言われればその通りなんだろう。
神に対して「切り刻んで豚のエサにでもしてやる!」と言い放つターニャは無数の敵をなぎ払って英雄視されるのに対して、信心深く神のご意思として行動するメアリー・スーはターニャたった1人を始末することもできない。
(出典:YouTube KADOKAWAanime)
こうしたことは多かれ少なかれ現実世界で起こっていることそのものだけれど、だからといってアニメ作品としてひたすら殺し合いを描くことにどれほどの意味があるんだろうか…
ドロ沼の殺し合いが続く不条理な世界、それを体験させることが「存在エックス」の意思で、その世界観を描くことがこの作品の答え、そういうことなんだろうか…。
だとしたら、「存在X」の存在感も、ターニャのカッコよさも、設定の面白さも、戦争の悲惨さももちろん感じなかった、というのが、「劇場版 幼女戦記」を見た個人的な、率直な感想なのでした。
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